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坂口安吾『風と光と二十の私と』『私は海をだきしめていたい』を解読する

坂口安吾 - Wikipedia

先日、中学からの友人と神保町へ遊びに行ったとき、坂口安吾を薦められました。

名前と『堕落論』くらいは聞いたことがあるものの、全く未知な作家です。

友人は、受験勉強に疲れたときに読んでいたそうで、『風と光と二十の私と』を特に好んで読んだ作品だと言っていました。

 

受験期に良い本と出会えることは皆に当てはまるのでしょうか。

私はセンター試験予想問題に出題された、鈴木三重吉『千鳥』がずっと心に残っています。

いつか『千鳥』もご紹介できたらと思います。

エモいので是非読んでください。

 

 

さて、坂口安吾作品はありがたいことに「青空文庫」に多く収録されているので、今回は2冊読んでみました。

『風と光と二十の私と』と『私は海をだきしめていたい』です。

どちらもあっという間に読めてしまいますが、坂口安吾がどういう人物だったのかを垣間見ることができるでしょう。

 

『風と―』は自伝的短編小説で、二十歳までの自分と1年間教員として働いた小学校での思い出を回想するお話です。

『私は―』も短編小説で、何事にも満足ができない孤独な男と不感症だが身体を弄んでしまう女との肉欲に従順な生活が、アッサリとした不思議な調子で描かかれています。

 

おそらく、この2つの作品の主人公「私」は同一人物、つまり坂口安吾自身であり、前者は二十歳までの若い時(回想形式であるが)、後者は30代から40代の頃だと思われます。

 

今回は2作品の「私」を同一人物と見なし、それぞれの「私」の特徴や個性を分析しながら、共通点・相違点を紐解いていきましょう。

 

 

少年期

まず、『風と光と二十の私と』に描写される「私」の特徴について記したいと思います。

 

小さい頃から学業が嫌い、人に命令されることが嫌いである彼は、学校を大半サボっていました。そのせいで、放校(転校という形で追い出される)や落第を受け、中学校を卒業するときにはすでに20歳になっていました。

サボっていたときに何をしていたかというと、本を読むわけでもなく、映画を見に行くでもなく、浜辺の松林や草原で寝転がり、海や空をボンヤリと眺めて過ごしていたのです。

「全然ムダなこと」として書かれていますが、海や空をボンヤリと眺めるという行為は、「私」の性格の核の部分であるだろうと感じます。

 

ここで、彼は宗教に漠然としたあこがれがあったことも加えておきたいです。

人の命令に服することが嫌いな彼ですが、宗教、求道の自らを縛るような厳しさに対して郷愁めくあこがれを抱いていました。

先に描かれる教員生活、その後の人生に大きく関わる重要な「私」の思想なのです。

 

  • 学業嫌い、命令嫌い
  • サボって、ボンヤリと過ごす
  • 宗教へのあこがれ

(「私」の性格、特徴を何回か箇条書きで記しておきたいと思います)

 

青年期

勉強が嫌いで、命令や規律のようなものが嫌いな「私」は、20歳で中学校を卒業すると、小学校の代用教員として働きはじめます。

一見教員に似合わなそうな性格をしている彼ですが、その頃はそれなりの夢や抱負があり、今(執筆時)の「私」よりも大人で節度とたしなみがあり、教育について自分なりの考えを持っていたそうです。

 

彼の方針は「子どもの美しい魂を育てる」でしょう。

彼が担当したのは、勉強が苦手で自由奔放な”問題児”の多いクラスでした。

彼は、勉強が苦手な子を無理に勉強させることはしません。そんなことをしても無駄だと自身の経験からわかるのでしょうか。

大切なことは温かい思いを持つ「魂」を育てることであり、それは悪い子どもほど持っているといいます。

勉強よりも温かい心や郷愁の念という人間性を「私」は大事に見ていたのです。

 

「私」は怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、すなわち行雲流水を心がけていました。

「私」の上司にあたる主任というのもなかなか問題で、癇癪もちで小心者なのですが、彼は気にすることはありません。

人間性を直したり、否定したりすることなく、すべてを認め、包み込む。

行雲流水でいるから、彼は20歳にもかかわらず、老成して悟りの境地さながらです。

懐の深さや落ち着きは、彼自身は若い時の特有のものだと考えていますが、これは寝転んで空などをボンヤリと眺めていたような彼のひとつの特徴なのでしょう。

 

この特徴と関連して、彼は教員をしていた頃、自然から喜びを見出していました。

太陽、青空の光、麦畑を渡る風、木々の葉や雨の一粒一粒にも幸福や歓喜、なつかしい命を感じ取っていたのです。やはり悟りを開いていそうな心持ちですね。

自然を愛で、行雲流水に生きる。生徒からも教師として慕われ、彼は何事にも満ち足りていたのです。

 

 

しかし、彼にはもうひとつ重要な特徴があります。「不幸や苦しみへの志向」です。

人は満足をしてはいけない。不幸になって、自分を苦しめなければならない。

満ち足りている「私」に、もう一人の自分が囁きかけます。

 

人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね

 

自分を自分で虐げるようなこの思想に驚いてしまいますが、どこからこのような考えに至ったのでしょうか。

それは宗教へのあこがれでしょう。前述したように彼は漠然とした宗教へのあこがれを持っており、自分をうんと縛りつけるような厳しさへと進んでいったと感じます。

 

信仰心は、動物と一線を画す、人間特有のものです。そして、自分を律することは理性を持つ人間の高度な技でもあります。

「私」はただのマゾヒズムではなく、彼なりに、高貴でより人間的な人間を目指していたのかもしれません。

 

やがて宗教へのあこがれは「世を捨てる」ことへのあこがれへつながっていくのです。

 

  • 学業嫌い、命令嫌い
  • サボって、ボンヤリと過ごす→行雲流水、自然からの幸福、満足
  • 宗教へのあこがれ→不幸や苦しみへの志向

 

 

満ち足りた自然からの幸福感と不幸と苦しみへの志向。

「私」の中に相反する2つの精神が同居し、彼を悩ませる。

 

しかし、彼はまだ不幸とはどういうことか、苦しみは何をもって苦しみというか知らないのです。

不幸を考えるとき、彼は漠然と娼家を連想します。娼家へ行って不潔なひどい病気になればわかるのではないかと考えます。

肉欲をみじんも感じていなかった「私」が娼家を連想するというのが、『私は海をだきしめていたい』に繋がるような気がするのです。

 

 

結局、彼は小学校の教員をやめてしまいます。

「世を捨てる」という形態にあこがれつつも、「世を捨てる」ことへの不安、悔恨、絶望がこみ上げ、なぜ教師として身を捧げることができないのかと悲しみます。

でも、すべてを捨てたらどうにかなるのではないか、とも思っています。

 

・・・ただひたすら捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の足音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。

 

壮年期

ここからは『私は海をだきしめていたい』での「私」の特徴に移ろうと思います。

この作品は少し変わった文章からはじまります。

 

私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。・・・

 

はじめに読んだとき、何のことを言っているのだろうと考えましたが、これはこの作品の「私」を端的に表している文章なのです。後ほどわかります。

 

神様の国へ行こうとしながら地獄へ行ってしまうような男。

神様と悪魔とを同時に考えてしまう、ずるい男。

彼は、いつか神様にも悪魔にも蹴飛ばされ、裸にされ、突き落とされてしまうのではないかと考えていました。

しかし、近ごろ妙に安心するようになってきたと言うのです。神様にも悪魔にも、蹴飛ばされたり突き落とされたりせず、平穏に暮らせるのではないかと考え始めます。

同居している女が関係しているようです。

 

男曰く、女は「うぬぼれの強い、頭の悪い、貞操の観念がない、気まぐれで、ガサツで慌て者」

むちゃくちゃに言いますね。どこまで本当かはわかりませんが。

しかし、わたしもこの女を、感情の起伏が激しい人間だなと読んでいて思いました。

 

女は過去に女郎(娼婦)や酒場のマダムを勤めていました。娼婦であったせいか、今は不感症になっています。つまり、肉体の喜びを感じることができないのです。

それでも、自分の肉体を弄ばずにいられず、いろいろな男と身体を交わらせるのでした。

 

一方、男は自分のことを「如何なる物にも満足できない、常にあこがれている人間」という風に言っています。

あらゆる物が「タカの知れたもの」と知ってしまったから、もはや恋をすることはできない。

でも、その「タカの知れたもの」と遊ばずにはいられないのです。

その遊びは、満足もなく後悔もない、陳腐で退屈なものにもかかわらず…

 

本当の喜びを感じられないけれど、肉欲にまかせて遊んでしまう。

この「淫蕩の血」が男と女の共通する部分であるようです。

 

  • 神様と悪魔とを同時に考えてしまう
  • 如何なる物にも満足できない
  • 「タカの知れたもの」と遊ばずにいられない

 

 

「私」は女の肉体を好んでいます。痩せているようで肉づきが豊かでやわらかな、美しい体。

加えて、女は不感症で肉体の喜びを知らないから、男は一人欲望のまま狂うことができるのです。

「私」は女を抱いているその心情をさまざまな形容で伝えます。

 

私は女の肉体をだきしめているのでなしに、女の肉体の形をした水をだきしめているような気持になることがあった。

 

山の奥底の森にかこまれた静かな沼のような、私はそんななつかしい気がすることがあった。

 

虚しいものを抱きしめていることは、肉慾の不満は別に、せつない悲しさがあるのであった。

 

私が肉慾的になればなるほど、女のからだが透明になるような気がした。それは女が肉体の喜びを知らないからだ。

 

応ずる答えがなく、私はただ虚しい影を抱いているその孤独さをむしろ愛した。

 

「私」は女の身体に対して、安らぎや心地よさを感じつつも悲しみや孤独も共に感じていますね。

真実というものから見捨てられた肉体に、男は「みだらな魂が静かに許されているような幼いなつかしさ」「虚しくも清潔な、心を洗ってくれるふるさと」を覚えます。

 

「私」は女の気まぐれも好んでいます。

寝ようとする「私」の額に冷たいタオルをのせる行為や、水を溜めた洗面器に足をつっこんで壁にもたれていたり、季節の果物をアッサリした食べ方で食べたりする姿。

男は、女の淫蕩を恨んだり呪ったりもしましたが、その気まぐれな美しい容姿はすべて淫蕩から成るものと知るのでした。

 

女の肉体も女の気まぐれも好きでいるが、女それ自体を好きになることはできない。

女への愛着が限定されていることに、「私」は満たされも、悲しみもします。

 

みたされた心は、いつも、小さい。小さくて、悲しいのだ。

 

本当の喜びとは何だろう、と男は考えだします。

本当の喜びは、鳥となって空を飛び、魚となって水をくぐり、獣となって野を走りたい。

肉欲は、自分自身の本当の喜びではないと気づいたのです。

 

肉慾すらも孤独でありうることを見出した私は、もうこれからは、幸福を探す必要はなかった。私は甘んじて、不幸を探しもとめればよかった。・・・

・・・私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福などは希わない。・・・人の魂は永遠に孤独なのだから。

 

 

聞き覚えがあるような、「不幸や苦しみへの志向」が出てきましたね。

そしてやはり、この「私」も不幸や苦しみ、おまけに幸福がどんなものかを知らないのです。

「どうにでもなれ。」

ともあれ、「私」は、如何なる物にも満ち足ることがないと確信したのです。

それは結局、満ち足ることを欲しない建前、つまり内面のすり替えとなってしまうのでした。

 

この「満足を知らない」と「満足を欲しない」ということこそ、冒頭の神様と悪魔の正体なのではないでしょうか。

欲しないと言いつつも女の肉体を慕う、彼の心は貪欲で矛盾が生じているのです。

 

  • 神様と悪魔とを同時に考えてしまう→満足を知らない、満足を欲しないの矛盾
  • 如何なる物にも満足できない
  • 「タカの知れたもの」と遊ばずにいられない
  • 鳥や魚、獣になりたい
  • 肉欲すらも孤独→不幸や苦しみへの志向

 

 

あるとき「私」は女と温泉へ出かけます。

海岸へ散歩にでると、女は裸足で駆け回ります。女はいつにも増して大胆で、敏活で、奔放な動きです。

男はまた、そんな女の見知らぬ姿態の鮮やかさに目を打たれていました。

 

そんな中、男は「大きな、身の丈の何倍もある波」の幻覚を見ます。それは空を半分隠し、女を呑みこみ、暗い大きなうねりを持っていました。

一瞬の幻覚。しかし「私」はその海のあまりの美しさに釘付けとなりました。

女よりももっと無慈悲、もっと無感動、そしてもっと柔軟な肉体だったのです。

肉欲の小ささに悲しみながらも、男はこう思う。

 

私は海をだきしめていたい

 

見事なタイトル回収。

 

 

2つの「私」の同じ部分、変わった部分

さて、長々と書いてしまうのがわたしの悪い癖なのですが、この2作品を通して
「私」=坂口安吾の共通する思想がありそうと理解していただけたら幸いです。

ただ、わたしも坂口作品をまだそこまで読んでいないので(この文章を書くまでに『桜の森の満開の下』『堕落論』も読んでみたけど)、変なことを言っているかもしれません。

個人の感想として、以下を見ていただけたらと思います。

 

 

途中にもあげていますが、「私」の大まかな特徴を作品ごとに書いてみました。

『風と―』

  • 学業嫌い、命令嫌い
  • サボって、ボンヤリと過ごす→行雲流水、自然からの幸福、満足
  • 宗教へのあこがれ→不幸や苦しみへの志向

『私は―』

  • 神様と悪魔とを同時に考えてしまう→満足を知らない、満足を欲しないの矛盾
  • 如何なる物にも満足できない
  • 「タカの知れたもの」と遊ばずにいられない
  • 鳥や魚、獣になりたい
  • 肉欲すらも孤独→不幸や苦しみへの志向

 

共通点としては、やはり「不幸や苦しみへの志向」が見出せそうです。しかし、幸福への考え方は2つの作品の中で異なって見えるので、後述したいと思います。

もう一つ共通していると思うのが、行雲流水・自然の部分です。

 

『風と—』の中で「私」は、老成や落ち着き、行雲流水的な態度は若者特有の一時的なものであると語っています。

この主張は、半分当たっていると思います。思春期にある、すべてを知ったという“まやかしの悟り”、過剰な思い込み、達観した態度は、本当は空虚なものなのだけれど、自分の中では真実味を帯びているものです。

しかし、「私」の中のそれは、おそらく性格上のものでしょう。寝転がってボンヤリと空や海を眺めていることと、鳥になって空を、魚になって水を、獣になって野を駆け回ることにどれだけ違いがあるでしょうか。

わたしは2つの作品で、自然の中で育った少年が、成長しても自然を心のどこかで愛し続け、いっそあの雲にでもなって生きたいという心理を見た気がするのです。

 

まぁ、海を抱きしめたいと思うというのも変わりないのでは?(投げやり)

 

 

一方、相違点としては心の在り方が随分と異なります。

20歳の「私」は本当に満ち足りていて、自然を心から愛でていて、とてもきらめいて見えます。

しかし、後の「私」はまぁひねくれて…幸福という概念に囚われた、孤独な男と成り果てています。

2つの作品をつながっていると見ると、娼家に行けば不幸になって苦しめるのではないかと考えたものの、結局娼婦にも満足を求めてしまって虚しさを抱える「私」が見えてくるんですよね。

 

また、『私は―』の中で「私」が、みたされた心は小さくて悲しい、と言っていますが、むしろ彼の心の欲望は大きい、それはまさに海のように巨大だと感じます。

彼の心を救えるのは、やはり宗教や悟り。

坂口安吾もそれを承知で東洋大学哲学科へ学びにいったのではないか、と勘繰るのは行き過ぎでしょうか。

 

 

『風と光と二十の私と』は友人の薦めるとおり、生き生きとした温かい光を感じられ、同時にノスタルジーな気持ちにさせる良い作品でした。

『私は海をだきしめていたい』は男のエゴイズムにさらされる女が可哀そうだけど可愛らしいっていう手軽に読める作品です(?)

 

坂口安吾、今後とも読んでいこうと思います。